「僕らは今どこに? ボウイさん、道案内いたします。」
"Where Are We Now?"のプロモ映像に映し出されるベルリンの名所についての特集記事が、1月8日の"The Guardian"紙に掲載されましたので、紹介します。
19秒目: 壁
ベルリンの壁を語らずして、ベルリン関係の映画は制作できません。この映像にも、灰色で陰惨な姿を現しています。一見するとアーカイブのフィルムのようですが、「タヒェレス」の落書きが映るとそうではないことが分かります。タヒェレスは、今ではほとんど完全に高級住宅地となっているミッテ地区にある、この都市の最も有名な統合後の建物であり、多数のアートスタジオが主要な建物を占拠している、汚れた借地です。
多くの人々は、それがこの都市の最後の反資本主義の砦であると考えていました。しかし、2011年に、占拠者集団は、不動産開発業者から、100万ユーロを受け取って立ち退きました。最後の選挙者は、去年の9月に強制退去させられました。それは、「芸術が世界の別の外観を与えると信じる人々にとって、悲しい瞬間である」と、芸術評論家が記述した動きでした。後期にそこに住んでいた人々によって制作されたアートを実際に見た人なら、同意しかねるでしょうが、ベルリンのオルタナティブな歴史が、またもや都会派の住居に変えられてしまうことは、惜しむべきことでした。
28秒目: ポツダム広場
ボウイが最も有名なリコーディングをした、ハンサスタジオから角を曲がった所にあり、黄金の20年代には、ベルリンで最も裕福で人種差別的な広場でした。今やそこは高級ショッピングセンターや、ぶざまなレストランのチェーン店、お高いホテルが面する、全く気が滅入るような交差点となっています。世界で最も優れた建築家が、彼らの最悪な仕事をここでしました。
20年代には、ポツダム広場には、スモーキングジャケットを着たセクシーなレズビアンや、クリストファー・イシャウッドが好んだ類の少年がたむろしていました。その後、そこは爆撃されました。戦後、東ドイツ人は、その周囲にベルリンの壁を建て、無人の地としました。ヴィム・ヴェンダースの映画の「ベルリン・天使の詩(Wings of Desire)をご覧になったことがあるならば、閑散としたポツダム広場であると思われる場所で、ソファーに座っている老人を覚えていることでしょう。(もちろん、実際にはポツダム広場ではありません。もしその近辺にヴェンダースらが行っていたならば、東ドイツ境界警備隊により銃殺されていたことでしょう。)
34秒目: ベルリンテレビ塔
さて、ボウイはさらに都心に向かっています。遠くから見えてくるのは、ベルリンテレビ塔です。ベルリンで最も高い名所です。1960年代に東ドイツ人によって建てられました。それは本質的には、西側に対する「嫌がらせ」でしたが、東側の設計技術の能力を具現化するために仕立てられた揺さ振り運動でした。それにより、ドイツ民主共和国は近隣諸国のスパイ活動ができ、頂上のアンテナは、国民に長年の間恐ろしい番組を発信し苦しめました。まだ一般に公開されているので、ロンドンのBTタワーよりはいいです。球根のような形をした、塔の頂上の施設まで登るのに12ユーロ支払った後、そこにある回るレストランで値段も高すぎれば料理の味付けも濃すぎる料理を食べることができます。
36秒目: 連邦議会
道路の丸石は、以前の壁のルートを示しています。背景には、ドイツの国会の裏口が見えます。映像にはうつされていませんが、ノーマン・フォスターの最高傑作である、ガラスのドーム状の小丸屋根は、戦前の建築物を今日まで残しているものです。
53秒目: ニュルンベルク通り
ボウイは「ジャングル」をドイツ語で何と言うか知っています。「ジャングル」とは、1970年代、西ベルリンにあったナイトクラブです。ボウイはそこで、イギー・ポップ、ニック・ケイヴ、セイド、カルロス・サンタナ、フランク・ザッパなどのような人々と時を過ごしました。それがニュルンベルク通りにあったかどうかは定かではありませんが、ボウイは発音記号なしでその名を語っています。今日、ニュルンベルク通りは西ベルリンで最も活気に溢れた通りになっており、毛皮のコートを着た洗練された女性が小さな犬を連れ、ヘアスプレーの香りを漂わせながら歩いています。
1分10秒目: カーデーヴェー
「カーデーヴェーの近くで時間に迷った男」とボウイは歌います。カーデーヴェーとは、ドイツ人がドイツのハロッズと呼ぶのを好む百貨店です。統合以前には、この百貨店は、西側のデカダンスの究極の象徴でした。そして、壁が崩壊した後、多くの東ドイツの人々が最初に訪れたい場所でした。最近では、週末にバーデン・ヴュルテンベルク州から来たベージュのスラックスやフード付きの防水ジャケットを着た中年のドイツ人で一杯ですが、少なくとも、アホウドリの翼の下でドディ・アルファイドと踊る3メートルの高さの黄金のダイアナ妃の像はありません。紛らわしいですが、ビデオにはカーデーヴェーは全然映らず、その歌詞の所では、ケルン大聖堂が映っています。
1分49秒目: ブランデンブルク門
ドイツの凱旋門といえばこれです。この門は、平和の印として、プロシアのフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世の命により、アテネのアクロポリスのプロピュライアの門を模して建造されました。しかし、人々はそれを、恐らくは、デヴィッド・ハッセルホルフが1989年の大晦日にベルリンの壁の上に立ち、「自由を探して」を歌った背景として最も良く知っていることでしょう。
1分53秒目: ベーゼブリュッケ(邪悪な橋)
「2万人の人々がベーゼブリュッケを渡る」と、再度発音記号を2つ抜かして歌います。しかし、「ベーゼ」は「邪悪な」を意味し、「ブリュッケ」は橋を意味し、ボーンホルマーシュトラーセの東西間の国境を横切っていました。しかし、背景の映像は、レンガの間からトラバント(ドイツ製の小型車)が飛び出してくる所が映っていますが、これは、スプリー川沿いのベルリンの壁の1.3kmの長さの区間である、イースト・サイド・ギャラリーの映像であると思われます。それは、保存され、屋外のギャラリーに改装されています。
2分56秒目: ベルリンのミーツカゼルネ
ベルリンのミーツカゼルネ(賃貸住宅地)に住んだことがある人なら誰でも、この種の通路を見たことがあるでしょう。管理人が脚立の上に立ち、騒音がひどいとか、スリッパを履けとか、洗濯物の干し方やごみの出し方が悪いとかの文句を言おうとしています。
3分3秒目: 典型的なベルリンのスタジオ兼隠れ家
これは、ドイツの首都の現代的な言い回しです。ボウイは、謎めいたスローガンのTシャツを着ているため、ベルリンに「自分の芸術をしに」来た外国人の移民に他ならないように見えます。ベルリンに住む他の野心的な若者と同様、ノートを持ち、隠れ家の仲間に自分は作家に他ならないと思わせます。ベルリンでは、ふつう、そのような人は、毎日午後には万屋兼コーヒー店で、カフェラテを飲みながら、マックに向かいます。
(出展:2013年1月8日付ガーディアン紙 "Where are we now? Here are some hints, Bowie")
"Where Are We Now?"のプロモ映像に映し出されるベルリンの名所についての特集記事が、1月8日の"The Guardian"紙に掲載されましたので、紹介します。
19秒目: 壁
ベルリンの壁を語らずして、ベルリン関係の映画は制作できません。この映像にも、灰色で陰惨な姿を現しています。一見するとアーカイブのフィルムのようですが、「タヒェレス」の落書きが映るとそうではないことが分かります。タヒェレスは、今ではほとんど完全に高級住宅地となっているミッテ地区にある、この都市の最も有名な統合後の建物であり、多数のアートスタジオが主要な建物を占拠している、汚れた借地です。
多くの人々は、それがこの都市の最後の反資本主義の砦であると考えていました。しかし、2011年に、占拠者集団は、不動産開発業者から、100万ユーロを受け取って立ち退きました。最後の選挙者は、去年の9月に強制退去させられました。それは、「芸術が世界の別の外観を与えると信じる人々にとって、悲しい瞬間である」と、芸術評論家が記述した動きでした。後期にそこに住んでいた人々によって制作されたアートを実際に見た人なら、同意しかねるでしょうが、ベルリンのオルタナティブな歴史が、またもや都会派の住居に変えられてしまうことは、惜しむべきことでした。
28秒目: ポツダム広場
ボウイが最も有名なリコーディングをした、ハンサスタジオから角を曲がった所にあり、黄金の20年代には、ベルリンで最も裕福で人種差別的な広場でした。今やそこは高級ショッピングセンターや、ぶざまなレストランのチェーン店、お高いホテルが面する、全く気が滅入るような交差点となっています。世界で最も優れた建築家が、彼らの最悪な仕事をここでしました。
20年代には、ポツダム広場には、スモーキングジャケットを着たセクシーなレズビアンや、クリストファー・イシャウッドが好んだ類の少年がたむろしていました。その後、そこは爆撃されました。戦後、東ドイツ人は、その周囲にベルリンの壁を建て、無人の地としました。ヴィム・ヴェンダースの映画の「ベルリン・天使の詩(Wings of Desire)をご覧になったことがあるならば、閑散としたポツダム広場であると思われる場所で、ソファーに座っている老人を覚えていることでしょう。(もちろん、実際にはポツダム広場ではありません。もしその近辺にヴェンダースらが行っていたならば、東ドイツ境界警備隊により銃殺されていたことでしょう。)
34秒目: ベルリンテレビ塔
さて、ボウイはさらに都心に向かっています。遠くから見えてくるのは、ベルリンテレビ塔です。ベルリンで最も高い名所です。1960年代に東ドイツ人によって建てられました。それは本質的には、西側に対する「嫌がらせ」でしたが、東側の設計技術の能力を具現化するために仕立てられた揺さ振り運動でした。それにより、ドイツ民主共和国は近隣諸国のスパイ活動ができ、頂上のアンテナは、国民に長年の間恐ろしい番組を発信し苦しめました。まだ一般に公開されているので、ロンドンのBTタワーよりはいいです。球根のような形をした、塔の頂上の施設まで登るのに12ユーロ支払った後、そこにある回るレストランで値段も高すぎれば料理の味付けも濃すぎる料理を食べることができます。
36秒目: 連邦議会
道路の丸石は、以前の壁のルートを示しています。背景には、ドイツの国会の裏口が見えます。映像にはうつされていませんが、ノーマン・フォスターの最高傑作である、ガラスのドーム状の小丸屋根は、戦前の建築物を今日まで残しているものです。
53秒目: ニュルンベルク通り
ボウイは「ジャングル」をドイツ語で何と言うか知っています。「ジャングル」とは、1970年代、西ベルリンにあったナイトクラブです。ボウイはそこで、イギー・ポップ、ニック・ケイヴ、セイド、カルロス・サンタナ、フランク・ザッパなどのような人々と時を過ごしました。それがニュルンベルク通りにあったかどうかは定かではありませんが、ボウイは発音記号なしでその名を語っています。今日、ニュルンベルク通りは西ベルリンで最も活気に溢れた通りになっており、毛皮のコートを着た洗練された女性が小さな犬を連れ、ヘアスプレーの香りを漂わせながら歩いています。
1分10秒目: カーデーヴェー
「カーデーヴェーの近くで時間に迷った男」とボウイは歌います。カーデーヴェーとは、ドイツ人がドイツのハロッズと呼ぶのを好む百貨店です。統合以前には、この百貨店は、西側のデカダンスの究極の象徴でした。そして、壁が崩壊した後、多くの東ドイツの人々が最初に訪れたい場所でした。最近では、週末にバーデン・ヴュルテンベルク州から来たベージュのスラックスやフード付きの防水ジャケットを着た中年のドイツ人で一杯ですが、少なくとも、アホウドリの翼の下でドディ・アルファイドと踊る3メートルの高さの黄金のダイアナ妃の像はありません。紛らわしいですが、ビデオにはカーデーヴェーは全然映らず、その歌詞の所では、ケルン大聖堂が映っています。
1分49秒目: ブランデンブルク門
ドイツの凱旋門といえばこれです。この門は、平和の印として、プロシアのフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世の命により、アテネのアクロポリスのプロピュライアの門を模して建造されました。しかし、人々はそれを、恐らくは、デヴィッド・ハッセルホルフが1989年の大晦日にベルリンの壁の上に立ち、「自由を探して」を歌った背景として最も良く知っていることでしょう。
1分53秒目: ベーゼブリュッケ(邪悪な橋)
「2万人の人々がベーゼブリュッケを渡る」と、再度発音記号を2つ抜かして歌います。しかし、「ベーゼ」は「邪悪な」を意味し、「ブリュッケ」は橋を意味し、ボーンホルマーシュトラーセの東西間の国境を横切っていました。しかし、背景の映像は、レンガの間からトラバント(ドイツ製の小型車)が飛び出してくる所が映っていますが、これは、スプリー川沿いのベルリンの壁の1.3kmの長さの区間である、イースト・サイド・ギャラリーの映像であると思われます。それは、保存され、屋外のギャラリーに改装されています。
2分56秒目: ベルリンのミーツカゼルネ
ベルリンのミーツカゼルネ(賃貸住宅地)に住んだことがある人なら誰でも、この種の通路を見たことがあるでしょう。管理人が脚立の上に立ち、騒音がひどいとか、スリッパを履けとか、洗濯物の干し方やごみの出し方が悪いとかの文句を言おうとしています。
3分3秒目: 典型的なベルリンのスタジオ兼隠れ家
これは、ドイツの首都の現代的な言い回しです。ボウイは、謎めいたスローガンのTシャツを着ているため、ベルリンに「自分の芸術をしに」来た外国人の移民に他ならないように見えます。ベルリンに住む他の野心的な若者と同様、ノートを持ち、隠れ家の仲間に自分は作家に他ならないと思わせます。ベルリンでは、ふつう、そのような人は、毎日午後には万屋兼コーヒー店で、カフェラテを飲みながら、マックに向かいます。
(出展:2013年1月8日付ガーディアン紙 "Where are we now? Here are some hints, Bowie")
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