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トニー・ヴィスコンティのインタビュー

トニー・ヴィスコンティがデヴィッド・ボウイとのコカインやアルコホーリクス・アノニマス、寿司についての秘密を打ち明ける

2013年1月12日 ザ・タイムズ紙より

10年間の沈黙を破り、デヴィッド・ボウイが戻ってきた。ティム・ティーマンが、彼の地球上でのプロデューサーであり友人でありスポークスマンである人物と対話した。一番下までスクロールすれば、ボウイのニューアルバムの各曲についての案内をお読みになれる。トニー・ヴィスコンティは、1967年以来、デヴィッド・ボウイと面識があり、「世界を打った男(1970)」を始めとし、12枚もの非常に名高いアルバムをプロデュースした。彼らは、「山のようなコカイン」を一緒にした。「アルコールはもっと酷かった」とのことだが。両者は今や禁酒しており、「アルコホーリクス・アノニマス(AA)」の卒業生であり、共に日本食を好み、ニューヨークに住んでいる。ボウイは「本当に寿司好きだ」。しかし、ボウイが「デモを録る」ために2年前にヴィスコンティに電話した時、68歳のプロデューサーは、衝撃を受けたと認めている。
「彼が又曲を書いているとは思いも寄らなかった。僕らが2009年に会話したとき、彼は曲は書いていないとはっきり言った。そして今週、シングルがリリースされ、世界を驚かせた。」と彼は語っている。
"Where Are We Now?"という歌は、1970年代にボウイとヴィスコンティが住んでいたベルリンについての憂鬱な哀歌だが、ボウイの66歳の誕生日である火曜日のGMT午前5時に、何の前触れもなくリリースされ、世界的なボウイ騒ぎを引き起こした。ラジオ4の番組"Today"で初めてオンエアされた。ボウイの10年ぶりのアルバムである"The Next Day"は、3月11日にリリース予定だ。

シングルのリリース前夜、ヴィスコンティは「眠れなかった」と打ち明ける。ニューヨークのお洒落な会員制のクラブで水を飲んでいた。彼は、黒ずくめの服を着て、スラッとしている。彼は、麻薬やアルコールを太極拳に変え、短い白髪だ。「僕は2年間秘密を守ってきた。2か月間、リリースの日を知っていた、カウントダウンだった。47日…。最後の日には、互いにEメールを送り合った、僕は、
「爪を全部かじり切っているよ。あと2時間35分だ。すると、ボウイが、「2時間26分だ。」と返事した。それから、真夜中に世界的なボウイについての掲示板での投稿を読んだ。「何てこった。」みんな彼を見限っていた。その翌日、リリースの反響がとても良かったので、彼はとても喜んだ。「ほかに何を予想していたというんだい?」と僕は言った。トニーによると、ボウイは、「二度とインタビューをしない。」と彼に言い、ヴィスコンティを地球上の自分の声にした。

「あいにくその通りなんだ。」とトニーは顔をしかめて言う。ボウイは2004年に心臓発作を起こし、ガンを患っているのではないかという噂があった。ヴィスコンティは、「断固として真実ではない」と言う。「ボウイはガンではない。彼の不健康についての噂が唯一彼が打ち消したい噂だ。彼は信じられないほど元気で、自分の体を大事にしている。彼が心臓発作の後、活発でないのは明らかだけど、彼には素晴らしい家族や友人がいる。ヴィスコンティは、自分の家族をののしるまっとうな理由がある。彼は1988年に、ボウイの近い親戚について、ボウイが「差し出がましい」と感じるような方法で、マスコミに話したことで、ボウイと疎遠になっていた。彼らは、「友達だから」和解した。

心臓発作以来、ボウイは絵を描いている。ヴィスコンティは、彼がニューヨークで個展を開くことも可能だと言う。「そして、大量の読書をしている。英国史、ロシア史、英国の君主、なぜ彼らが善や悪になったのか。彼の読んだ物全てが彼の歌の歌詞になる。それは後述されるこのアルバムの残りの曲に現れる専制君主や、スパイ、兵士についての歌から見ても明らかだ。

「僕は自分のヨットや馬について話したがる他のロックスターとも仕事をしてきた。デヴィッドは違う。」と、このプロデューサーは好意を込めて言う。インターネット時代への愛情、グラムロック、名声の働きが、より個人的な主題の基盤を形成する。

間違いなく最大の見出しを創り出すことになるのは、「バレンタイン・デー」である。それは、米国の学校での銃乱射事件への反応である。それは、12月のサンディ・フック小学校での大量虐殺の一年前に書かれた。「銃規制というよりは、精神衛生の問題だ。こういった銃撃事件を起こしているのは若者ばかりだ。銃撃する人の心の中が問題だ。」デヴィッドは、ジョニーという名前を、その人物に与えている。その名は、過去40年間で彼が12人の人々について名づけた名前だと思う。

なぜジョニーなのか?「僕には分からない。たぶん良い韻を踏むのだろう。一般的な人々を述べるのに役立つんだ。彼にとって問題は、銃が多すぎることではなく、銃撃者の心の健康なんだ。この2年間、銃撃事件の数は多すぎて、僕らは、その次の日にスタジオに入り、「何てことだ?何が起きているんだ?」と皆と同じようにショックを受け、こんな状況はすぐには終わらないと思っている。僕らには子供がいて、その恐怖は想像を超えている。僕らの子供に起こり得る最悪の事態は、公の場で射撃されることだ。
ニューシングルで取り上げられたベルリン時代は、ボウイがイギー・ポップと暮らしていた時代だが、人々が思うほど堕落したものではなかった。「僕らは酔いつぶれていた。でも彼らはとてもスパルタ的な生活をしていた。イギーには自分の寝室があったし、デヴィッドも自分の寝室があった。」

彼らの関係は友情を超えていたのか?「いいえ、絶対にない。それに、当時は彼は深刻な経済的問題を抱えていた。前妻のアンジーと離婚しようとしていたし、自分の人生を再構築しようとしていた。確かに、彼が深淵にたどり着いた時期もあった。」
「ヤング・アメリカンズ(1975)」を制作中、彼はコカインを取りすぎて、死にそうになった。僕もコカインで危うく死にかけた。心臓発作を起こしそうだと思った。僕は一日中働き続けた。彼は午後11時にスタジオに入ってきて、午前11時まで仕事したものだった。ある日僕は言った。「もう終わりにするよ。コカインでは持たなくなった。もう起きてられない。家に帰る途中、心臓が爆発しそうな気がした。僕が病院に行って、彼のスキャンダルを引き起こしたくなかった。だから睡眠薬を12個飲んだ。自殺するつもりはなかった。ただ、心臓を鎮めたかった。効果があり、僕は生き残った。僕らはあれ以上続けていたら両方とも死んでいただろう。コカインに習慣性はないという神話があった。愚かにも、僕らはそれを信じていた。それは社会的な麻薬であり、社会的に受け入れられていた。どんなカクテルパーティにでも行くと、誰かがスプーンとかを差し出してきて、「ああ、ありがとう。」って答える。その習慣のために家を売った人々を知っているよ。僕らには制限がなかった。」

ヴィスコンティは1984年にコカインを取るのをやめた。「部屋に幽霊がいるのを想像してある日目覚めた。僕はただ金縛りにあった。」彼は2000年に禁酒し、ボウイと彼は両方ともAAに行った。「デヴィッドはそれがとても役に立つと考えた。僕らは互いの支援システムについて話す。そのプログラム出身の二人が一緒に座れば、それは実質的にAAの集会だ。僕らは2、3日おきにそのことについて話すんだ。もっとも、僕らはお祈りの言葉で始めたり締め括ったりはしないけど。僕が、「12回目の誕生日になるよ」と言うと、彼は、「僕は23回目だ」と言う。僕が「あれがなくて寂しいかい?」と聞くと、「全然寂しくないよ。」と言う。僕は、「僕もだ」と言う。

時々、二人はパーティでどれほど酔いつぶれていたかを思い出す。ニューヨークの深夜のクラブの外で彼らをリムジンが待っていたものだった。彼らの一番恐ろしい夜は?「僕らはジョン・レノンと午前10時半まで起きていた。僕らは山のようなコカインをした。卑猥なほど大きくて、マッターホルンみたいに見えた。それに、コニャックのボトルが4本空になっていた。」ヴィスコンティは一休みする。「彼はもう何もしない。きれいに足を洗った。彼は丈夫だし、顔色もいい。66歳でドラッグをして飲酒していたら、外見は酷いだろう。」
今のボウイの中毒は? 濃いマキアトだ。それ以外には、スタジオでは水を飲み、ローストビーフのサンドイッチとサラダを食べる。
二人は、最近一緒に29曲創った。二枚目のアルバムもほぼ確実だ。「僕らは今回のアルバムに入らなかった曲を諦めるつもりはない。」とヴィスコンティは言う。

「素晴らしい音楽作品だから、僕らはそれらの曲を振り返るだろう。詞がまだ完成していないんだ。僕は、彼のやる気は続いていて、今年中にスタジオに戻ってくることもあり得ると思っている。もし人々がこのアルバムを気に入らなければ帰ってこないだろうけど、彼には関係ない。彼は、自分のやりたいことは収録することだと言った。彼はツアーはしたがっていない。30年間以上もやってきたから、もう飽きたんだ。僕は彼とツアーに出かけたけど、彼らがどんなに大事にされても、彼らは睡眠不足になって、惨めで孤独になる。ステージの後は、ただリムジンに乗って突っ伏したい。ショーのスターがステージで最も多くを提供しないとならない事は、体を極限に追い込むんだ。

ヴィスコンティは2003年のニューヨーク郊外のジョーンズビーチでのコンサートの後、彼に会ったことを覚えている。「彼はただ座って、僕は疲れたと言った。彼は楽しんでいなかった。」

ボウイはグラストンベリーとSXSWフェスティバルに出演するかもしれないと今週噂されていた。「その可能性は全くない。」とヴィスコンティは言う、「僕は誰にも余計な期待をさせたくない。彼は自分の楽しみ方を見つけたことにかなり頑固になっている。ただ収録がしたいだけだと僕に言ったんだ。」

心臓発作の後、ボウイはヴィスコンティに、冗談や、人々が愚かな事をしているYouTubeの動画を送って、連絡の取り合いを再開した。僕はアーティストたるものは決して引退したりしないと思う。彼が引退なんてするはずがないだろう。アーティストの中には長い間創作をしない者もいる。彼らは経験を蓄積し、何か書くべきこと見つける必要がある。僕はクリストファー・ヒッチェンスの本、「モータリティ」を読んだ。デヴィッドも読んだはずだ。」

ボウイはニューヨーカーに上手く紛れ込んで歩く。「彼は長い間街角に立ち尽くしたりしない。」彼は10月にニューヨークのソーホーの収録スタジオの外で撮影されたけど、見つけられるのは珍しい。彼は世界中を旅するけど、「彼は知られたくないから君たちは知らない。彼は私的な生活を送ったことがなかったから、私生活を大事にしているんだ。」

このアルバムは18か月の期間で作られ、その後3か月間集中的にスタジオで、一回につき2週間で収録された。ボウイはコンピューターで自分のデモを作る。

「彼はドラムループの作り方、コードの記録の仕方、そしてその上にバックボーカルをつける方法を知っている。」と彼の友人は言う。時には、音楽だけのトラックもあれば、「ラララ…」だけのトラックもある。「彼は、ある歌が殺人についての歌だと感じさせる。だからみんなその雰囲気になる。前もって書かれた歌などない。彼は音符を書き留めて、僕は各々の歌に同じマイクの設定を保つ。後でやり直せるように。」
ニューシングルは、詞がとても少ないが、どの行にも感情が込められていると彼は説明する。それは、ベルリンがどんなに映画の「第三の男」の都市のように思われたかを彼に想起させるものだった。そこにはドラマがある。殺人、ヒトラー、…。

ヴィスコンティは同時にボウイと歌手のマーク・ボランに会った。「僕は彼らが二人ともビッグになると分かっていた。」と彼は言う。ボランの方が対抗意識が強かった。そして、グラムロックを発見したボウイは、ヴィスコンティの予測では、ボランより一時間程前にいた。彼らは僕の息子のようだ。どちらの方をより愛しているかは言えないけれど、ボランは皆を脅威だとみなしていた。ある友人が僕に彼の写真を見せてくれた。僕とデヴィッドが毛むくじゃらのバンドのホークウィンドのサポートでステージに立っているのを、変装して見ていた所をね。彼は分からないように布の野球帽をかぶっていた。

ボウイの性について、(70年代、彼は自分がゲイだとかバイだとか言っていた)「僕は彼がボーイフレンドと一緒にいたところなんて見たことがない。彼は確かに人々にそのように思って欲しかったのだと思う。でも彼が強く抱擁するのはいつも女性だった。当時はホモに対する嫌悪感が強かった。彼は、最前の戦略がその裏をかいて人々にショックを与えることだと言った。彼はじぎースターダストが仮面だと言ったが、それで人々は混乱した。僕は今でも人々がこう言うのを聞く。あの変人と仕事しているのかと。完全に払拭されることは決してない。」

ボウイは批評を「気にしない」とヴィスコンティは言う。「彼はとても賢い奴だ。シングルをリリースする際の彼の考えの中に、人々にこれでショックを与えようという気があったのかもしれない。そうなら、完璧な出来栄えだ。」

多くの音楽ジャーナリストと同様、ボウイとヴィスコンティは、ボウイが「スケアリー・モンスターズ」以来作った良い曲について、「スケアリー・モンスターズ以来最高」であると冗談を言う。彼らは別の冗談を共有している。「僕らはスタジオに入る度、この曲は僕らのサージェント・ペパーになるだろうと言うんだ。」

彼はボウイが英国のコメディーが大好きであると明かす。特に、ハリー・エンフィールドとポール・ホワイトハウス、ピーター・クックとダドリー・ムーアである。アルバムのリアリティの2003年の収録の間、放送された「オフィス」のDVD。ボウイは又、ITVのドラマの「フォイルズ・ウォー」や、米国の警察シリーズの「ザ・シールド」、そして、フランスのドラマの「スパイラル」に夢中でもある。

ヴィスコンティの最も気に入っていないボウイの歌は、(彼が道を見失っていた)ネバー・レット・ミー・ダウンの時期のものである。しかし、彼は、例え自分がプロデュースしたものではなくても、「レッツ・ダンス」は好きだ。彼は、「物事を混ぜる」のが好きだと言い、イレーン・ペイジやシン・リジーとも仕事をした。彼は最近の若いバンドのプロデュースもしている。(その中にはレイザーライトやダンディー・ウォーホルズも含まれる)しかし、1970年代と比べて、どれほど音楽性が低下したことかとショックを受けている。チャーリー・パーカーと比べて、私たちの音楽性がどれほど低いことかとショックを受ける。今日では、人々はギターを弾くより、コンピューターで1万時間を過ごす。

アークティック・モンキーズやアーケード・ファイアは、名誉ある例外であるが、彼は、1970年代や1980年代を「チャネリング」しているバンドを嫌っている。「ひどいもんさ。僕らがリリースしたバラードを聴いてごらんよ。何のまやかしもなく心から歌っているただの男さ。」

3月のアルバムのリリースに先立ち、もう一曲のシングルがリリースされる。ヴィスコンティは、三回結婚し(かつてはウエールズのフォークシンガーのメアリー・ホプキン)、4人の子供がいて、今の結婚相手とは12年目になる。(「僕は独り身のほうが誠実だ。ロマンスを続けるには働き者でなければならない。」)彼は、マンハッタンの屋上で太極拳をたしなみ、シン・ホワイト・デュークからのじらすような電話を待つ。ということは、これからもっとボウイの音楽や驚きが待っているのか?「ああ、そうだよ。」とヴィスコンティは、満面の笑みを浮かべて言う。

ヴィスコンティによるボウイのニューアルバムの案内

1 ザ・ネクスト・ディ
歴史に関する曲で、恐ろしいほど陰鬱だ。それはカトリックの枢機卿か暴君かについての歌だと思う。それはとても暴力的だ。主人公は人々により絞首刑にされ、水に沈められ、八つ裂きにされ、焼かれ、バラバラにされる。

2 ダーティ・ボーイズ
これまでに存在した全てのグラムロックのスターのための婉曲表現を題にした歌だ。

3 ザ・スターズ(・アー・アウト・トゥナイト)
あらゆる種類のスターについての歌だ。もったいぶっていると言われても仕方ないが。

4 ラブ・イズ・ロスト
色情についての歌ではない。インターネット時代に、人々が自分の感情をどれくらい切り捨てているかについての歌だ。

5 ホエア・アー・ウィー・ナウ
とても個人的な歌だ。それは1970年代に僕らがいたベルリンについての歌だ。人々が示唆しているほど自叙伝的なものではない。彼は物語の語り手だ。これは彼についての歌でもあり得るし、ある時代のベルリンについての歌でもあり得る。

6 バレンタイン・ディ
ジョニーという名前の高校の大量虐殺者の心の内だ。米国の学校で多発する銃撃事件がきっかけとなった。

7 イフ・ユー・キャン・シー・ミー
挑戦的なジャズ・ファンク・ロックの作曲。長い間ボウイの歌手をしているゲイル・アン・ドーシーのボーカルを伴い、非常にテンポの速い歌だ。ボウイかもしれないし、政治家かもしれない誰かの間で自己認識の切り替えが起こる。

8 アイド・ラザー・ビー・ハイ
人間であるよりも、野卑な感情に身を任せることを選んだ、第二次世界大戦中の兵士の嘆きの歌だ。ボウイはハイにはなりたくない。彼は潔癖で、何年間もAAのメンバーだ。

9 ボス・オブ・ミー
抑圧され、虐待されていると感じている誰か、三人称で話している。

10 ダンシング・アウト・イン・スペース
もう一人のミュージック・アーティスト、又はアーティストの集まりについての歌。

11 ハウ・ダズ・ザ・グラス・グロウ
それは「アイド・ラザー・ビー・ハイ」のとの連作で、第一次世界大戦についての歌だ。どのように英国の兵士が訓練されたかを、たくさんのことの隠喩として表現している。純粋な詩だ。

12 (ユー・ウィル)セット・ザ・ワールド・オン・ファイア
1960年代にナイトクラブで発見された若い女性歌手につての歌だ。彼女は世界に火を点けるのか?それは誰か特定の人物についてではなく、ディランの傍で歌った数人の人々についての歌だ。

13 ユー・フィール・ソー・ロンリー・ユー・クッド・ダイ
それは冷戦およびスパイ行為の時代のロシア史と、醜い終焉についての歌だ。それはR&Bの歌のように聞こえる。

14 ヒート
それは監獄、孤独、そして反社会的離脱についての歌であり得る。歌詞が余りにも荒涼としているので、僕は彼に何について言っているのか尋ねた。「ああ、僕のことじゃあないよ。」と彼は言った。これらの歌のどれ一つとして彼のことではない。彼は観察者だ。




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